著者:石田 麻琴

S君。あるひとりのボクシング好きの話。後編【no.0352】

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 あるとき、私のボクシング好きを聞きつけたS君が「石田君って、ボクシング好きって、ホンマか!?」と話かけてきた。それまで私は、講座の受講生と挨拶をする程度で、あまり会話をしていなかったのだが、以降、S君とはよく話すようになった。何回か、ボクシングも一緒に見に行った。試合の後は飲みに行き、ボクシングの話をした。(その時には、S君は東京に引っ越してきていた)。いつも肴になるのは、1995年に韓国で行われた李炯哲と田村知範の試合だ。これは、ボクシングに興味がある人は、絶対に見ておいた方が良い。

 スポーツジャーナリスト講座の講座内容は、主に2つに分けられる。ひとつは、コーディネーターの先生がお呼びしたゲスト講師の講演。2時間で講演と質疑を行い、その感想文を宿題として作成し、提出する。もうひとつは、現役のプロジャーナリストによる添削指導。事前に出されたお題についての文章を作成、提出し、ジャーナリストの先生が講座内で、生徒の作文1つ1つについてアドバイスを行う。この2パターンが週ごとに交互に行われる形だ。

 添削指導をしてくれる先生のひとりに、F先生がいた。F先生は、当時も今もスポーツジャーナリストとして活躍されている方だ。専門はラグビーであるものの、ボクシング雑誌でもコラムを執筆していて、ボクシング業界に精通している方でもあった。S君は、何かボクシングを書く仕事に携われないか、ボクシング雑誌の方を紹介してもらえないかと、F先生に相談していた。

 S君は、文章が上手い。F先生が評するに「ハードボイルドな文章」を書く人だ。大阪から東京に上京してきた熱意、F先生からの口添えもあり、S君は日本に2つだけしかないボクシング雑誌の片方の編集部に出入りするようになった。

 もちろん、最初からボクシングの記事を書かせてもらえたわけではない。もちろん、最初からボクシング誌に文章を載せてもらえるわけでもない。週3の雑用のアルバイトからのスタート。しかし、それから少しずつ、取材に帯同させてもらえるようになり、写真を担当させてもらえるようになり、編集後記にひと言を載せてもらえるようになり、そして記事を書かせてもらえるようになった。

 そんなS君は、いま何をしているのか。大阪から高速バスで東京にきていたあの日から13年が経った現在、S君はボクシング誌の編集長をしている。アルバイトからスタートした、そのボクシング雑誌で。S君は、見事に「ボクシングを書く」という夢を叶えたわけだ。きっと、八重樫東とローマン・ゴンサレスの試合が行われた代々木第二体育館のどこかに、S君はいたことだろう。

 このS君の話を聞いて、どう思うだろうか。

 たまたま、偶然なのかもしれない。文章は上手だったし、ボクシングの知識があったのも後押ししただろう。同じような夢・目標を持っていなければ、どこか共感しづらい話かもしれない。ただ、同じスポーツジャーナリスト講座に通っていた私が思うのは、13年前、講座がスタートした時点では、私の方が環境に恵まれていたということだ。当時、21歳の幼い自分を卑下することはないが、厳しい環境の中でわずかなチャンスを掴んだS君を本当に尊敬している。

 私は、スポーツジャーナリストになれなかった。新聞記者にさえなれなかった。今の仕事や環境に満足しているし、「なれなくて良かった」部分もあるかもしれないが、「なりたかった」けれど「なれなかった」のが事実だ。そして、スポーツジャーナリストに「なれなかった」からこそ、いまの自分があるのかもしれないとも思う。もしかしたら、スポーツジャーナリスト講座に通ったことで学んだのは、テクニックや理論ではなく、「S君の生き様」だったのかもと。

 久々に、S君‥いや「ボクシング・ビート編集長」島君をボクシングを語りたいと思う。

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