著者:石田 麻琴

僕は年を取った、上村愛子も年をとった。 【no.0141】

(今日は少し、いつものテイストとは違います。でも書いているのは石田です)

 上村愛子選手のオリンピックが終わった。オリンピックでのパフォーマンスや、それに伴う採点についての話がしたいわけではない。上村選手を見ていたら、なんだかいろんなことを思い出したのだ。以下、上村愛子って敬称略になっちゃうけど、ゴメンナサイ。15年前に遡って、私も僕になります。

 僕が上村愛子を知ったのは、1998年の長野オリンピックのことだった。たぶん、みんなが最初に上村愛子を知ったのも、同じときだったと思う。長野オリンピック開催の前から、メーンスポンサーであるコカ・コーラ社のCMに、女子高生オリンピック選手として上村愛子が紹介されていたのだ。

 1979年生まれの上村愛子は、高校3年生だった。そして、僕らは高校2年生だった。年が近い僕らの間で、上村愛子は話題になった。女子高生のオリンピック選手、しかも可愛い。好きなタイプの女性として、上村愛子をあげる友達もいた。それほど、あのコカ・コーラ社のCMは衝撃的だった。広末涼子のドコモのCMと同じくらい衝撃的だった。もう15年以上前の話だ。

 1998年の長野オリンピックは、1972年の札幌オリンピック以来の自国開催ということで非常に盛り上がった。1998年の6月に日本の初出場となるサッカーのワールドカップも控えていたから、スポーツ界全体がなんとなく盛り上がっている雰囲気があった。高校生だった僕らは、スポーツ選手の世界へのチャレンジに熱狂した。

 教室のうしろの黒板に、縦2行、横4列のマス目が書かれていた。上には、岡部・斉藤・原田・船木という名前が書かれている。スキージャンプ団体だ。後ろの席に座っている同級生が、ラジオを聞いている。選手がジャンプするたびに、先生の目をぬってマス目に飛距離を書き込む。最初は注意をする先生だったが、次第に注意をしなくなり、途中から諦め、ジャンプの結果を気にしだす。優勝が決まると、教室のみんなで拍手をした。

 上村愛子は長野オリンピックでメディアが生んだ、最高のスターだった。当時、日本人の大半が知らなかったモーグルという競技を、これほどまで有名にしたのは間違いなく上村愛子の登場だ。全国民が注目した、上村愛子のパフォーマンス・・結果は7位。「あー、やっぱり」という気持ちと、「次がんばれ!」という気持ちと、里谷多英選手が金メダルを取ったことが、なんだか複雑に混ざりあった、よくわからない感じだった。

 メディアが注目する美人アスリートということで、どうしても色眼鏡で見てしまっていた。もう一度、オリンピックに出て引退、タレントに転身。もしくは、ピークを過ぎた時点での引退。いまとなっては大変失礼だが、上村愛子がそんな路線を辿っても、おかしくはなかった。というか、僕はそうなるのだろうと思っていた。でも、上村愛子は続けた。15年以上続けた。肉体的なピークはとっくに過ぎているはずなのに。まさか、5大会連続でオリンピックに出場し、34歳まで競技を続ける選手になるなんて。

 今回のオリンピックの上村愛子を取り巻く環境は、これまでとは違っていた。すでに、世界ランキングは10位台。トリノ・バンクーバーとは違う、もうメダルを期待されない、終わりかけの選手。上村愛子だからという理由だけでしか注目されない、上村愛子。だからこそ、昨日の上村愛子のパフォーマンスは衝撃的だった。みんなは、忘れていた、諦めていた。だけど、上村愛子は自分を信じ続けていた。競技のルールや評価基準が変わる環境の中で、15年以上トップレベルに居続けている人間を舐めてはいけなかった!!

 高校2年生だった僕らは、33歳になった。大学受験があって、大学生活があって、就職活動があって、社会人になって、転職があって、結婚があって、子供もできた。車を買って、マンションも買った。僕らを取り巻く環境は、180度変わった。長野オリンピックで一緒に熱狂していた同級生が、意図せず勝ち組と負け組に分かれた。社会をドロップアウトした同級生も、すでに亡くなった同級生もいる。僕らは、良くも悪くも、大人になった。

 上村愛子も大人になった。18歳が34歳になった。若くて可愛い女子高生の上村愛子ではなくなった。でも、あの頃と同じように、滑り続けている。メディアのインタビューに応える、あのたどたどしい話し方を見ていると、自分が高校生だった頃を思い出す。そして、なぜだか、少しだけ寂しい気持ちになる。「ああ、次のオリンピックに上村愛子はいないのか」と思うと、もっともっと寂しくなるというのに。

 おわり。