著者:石田 麻琴

僕と姉と愛子の町のはなし【no.0434】

(今日のブログは、いつものブログとは、ちょっとだけ雰囲気が違います。皆さんも、子どもの頃に戻った懐かしい気持ちで、読んでみてください。)

 先日、従兄弟の結婚式があり、仙台に行った。四歳になるまでしかいなかったが、仙台は僕の生まれた町だ。従兄弟の伯父さんが、秋保温泉に宿をとってくれ、父、母、姉、僕の四人は、結婚式後そちらに向かった。

 翌日、ホテルのチェックアウト時間の10時から、予約している新幹線の時間まで2時間半の時間があることがわかった。姉が「愛子に行こう。昔住んでいた団地を見たい」と言い出した。父と母は、関西空港までの飛行機を別で用意していたので、時間が無い。

 ホテルからタクシーで愛子駅まで30分、愛子駅から15分も歩けば団地に着くから、行って帰って40分を見れば愛子駅にまた戻ってくることができる。姉と僕は、ホテルの前で父、母と別れ、愛子駅へと向かった。

 愛子は、僕たち家族が住んでいた町だ。最寄りの駅は、仙山線の愛子駅。いまは「仙台市青葉区」という住所になっているが、30年前、僕たちが住んでいた頃は「字」のつく地名だった。

 ガラガラ、ガラガラ。結婚式で着たスーツや靴、そして引き出物が入って少し重くなったキャリーバッグを引いて、姉と僕は団地へと向かった。不思議と、駅から団地までは迷わなかった。駅の北口を出てから左に歩けば団地が見えてくる。商店街(といっても、四軒ほど店が並んでいるだけだが)を右に曲がれば、30年前住んでいた団地だ。

 母は愛子駅から15分くらい歩くと言っていた。姉と僕の記憶では15分以上歩くだろうと思っていた。でも、実際は駅から10分もかからず、団地に着いた。

 30年前と同じように、僕たちが住んでいた団地はあった。駐車場ができたり、マンションができたり、道路が舗装されたりしているが、「定礎昭和53年」と書かれた、「四号棟」は、まだそこにあった。四号棟の手前側の階段を最上階までのぼって、右側の部屋。それが、僕たちが住んでいた「442」の部屋だ。

 階段を一段ずつ、手をつきながら登ったこと。団地の前にある倉庫に自転車がしまってあったこと、草むらの坂をダンボールで滑ったこと。もう昔過ぎて、体験した記憶なのか、それとも夢で見たことなのかもわからない想い出が次々と浮かんでくる。

 姉と僕がキャリーバッグを引いて歩き出すと、前から予約車のタクシーがきて、四号棟の少し前で停まった。どこかで見た光景だった。いまでもはっきりと忘れない、30年前の1984年の11月、父の転勤で東京に越す、正にその日の光景だ。

 四号棟の前に停まったタクシーの中には、助手席に父、後部座席に母、姉、僕がいた。そして、タクシーの周りには、団地で一緒に過ごしたお母さん方、姉と僕の友人たちが何重にもなっていた。団地のみんなが1人1人順番に、「東京に行っても忘れないでね」「いつかまた会おうね」「頑張ってね」と母に声をかける。母は1人1人と握手をしながら、泣いていた。団地のみんなも泣いていた。僕は「引っ越す」ことの意味がわからず、車の中でただ待っていた。

 そのとき、1人のお母さんが僕に声をかけてきた。早坂くんのお母さんだった。早坂くんは、同じ団地に住む、僕にできた最初の親友だった。「まこちゃん、ひでやすがこれまこちゃんにあげるって。もっていって。ひでやすのこと、忘れないであげて」。早坂くんのお母さんは、早坂くんと僕がいつも一緒に遊んでいたおもちゃのひとつを、僕に手渡した。

 タクシーを囲んだ友達の輪の中に、早坂くんの姿はなかった。「ひでやす、いくら言っても、部屋から出てこようとしないのよ」。そのときの僕にはわからなかったけれど、今はわかる。昨日まで一緒に遊んでいた「まこちゃん」が今日いなくなる。それと向き合うのがこわかったんだなぁ。会うと現実なのがはっきりしちゃうから‥

 そんなことを思い出していると、団地の階段から子どもを抱っこした若いお母さんが出てきて、タクシーに乗り込んだ。そして、タクシーは行ってしまった。姉と私は、キャリーバッグを引いて愛子駅へと歩き出した。結局、愛子駅に戻ってくるまで30分もかからなかった。

 おわり。